大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京高等裁判所 昭和55年(う)796号 判決

被告人 峯崎嘉弘

主文

原判決を破棄する。

被告人は無罪。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人鵜沼武輝が提出した控訴趣意書に、これに対する答弁は、検察官棚町祥吉が提出した答弁書に、それぞれ記載されたとおりであるから、これらを引用する。

所論は、要するに、被告人は、本件犯行当時、精神分裂病に罹患していて、心神喪失の状態にあつたから、無罪の言い渡しをすべきであるのに、心神耗弱の状態にあつたと認定した原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認がある、というのである。

そこで、調査するに、本件は、厭世的な気分に陥つた被告人が、家に放火して焼身自殺しようと考え、昭和五三年一一月一一日午前二時ころ、当時寝起きするのに使用していた群馬県伊勢崎市連取町二四〇四番地峯崎祐一方東側の同人所有にかかる木造トタン葺物置内において、場合によつては、同物置に隣接する田中ミチの現住家屋(木造瓦葺二階建)に延焼してもやむを得ないと思いながら、右物置内及び同物置に隣接するビニールハウス北側に、自己の下着類を撒き散らして灯油をかけ、これにマツチで点火して放火し、よつて同物置一棟(床面積約五八・五平方メートル)及び右田中ミチの現住する同町二四〇〇番地所在の家屋一棟(床面積合計約七九・三三平方メートル)を全焼させたほか、田中誠一等の現住する同所所在の木造瓦葺二階建家屋一棟(床面積合計約一七九平方メートル)の西側外壁の一部等を焼燬した、という事案であるところ、原判決が、本件犯行当時、被告人は心神耗弱の状態であつたと認定したことは、原判文に照らして明らかである。

しかしながら、原判決挙示の関係各証拠、とりわけ原審鑑定人高橋滋作成の鑑定書、原審証人高橋滋の原審における供述、及び当審鑑定人安藤守昭作成の鑑定書、当審証人安藤守昭の証人尋問調書によれば、被告人は、本件犯行当時、心神喪失の状態にあつたものと認めるべきである。

以下、その理由を述べる。

右関係各証拠によれば、

(一)  被告人は、昭和四一年ころ(二三才ころ)に精神分裂病を発病し、その後、次第に被害妄想、関係妄想の症状が著明となり、昭和四三年八月ころには、自閉的傾向、睡眠障害、幻聴の症状を呈するようになり、実母に傷害を負わせた昭和四四年五月ころには、易怒、興奮、独語、徘徊、被害妄想の症状をあらわして、同年一一月六日伊勢崎市内の大島病院に強制入院させられて精神分裂病と診断され、昭和四五年四月一六日まで入院治療を受けて軽快退院し、その後は同病院に定期的に通院していたこと

(二)  被告人は、昭和四七年中島光子と結婚し、ガードマンの仕事などをしていたが、この間の約一年位は、精神状態も比較的良好であつたところ、昭和四九年二月、右光子と離婚したころから、再び被害念慮を抱くようになり、同年三月ころから山崎精神神経科医院に通院しながらチリ紙交換等の仕事に従事していたこと

(三)  被告人は、昭和五二年一月ころ、友人と一緒に四泊五日の台湾旅行に参加したりしたが、同年五月には、山崎医院への通院をとりやめ、同年八月ころ、兄弟から財産の分け前として四〇〇万円の現金をもらい受け、同年九月ころ、一人で台湾に渡り、約三〇〇万円を費消して、同年一一月帰国し、群馬県太田市のアパートに一人住いしながら、仕事もしないで徒食するようになつたが、このころも、関係妄想、被害妄想の症状を呈していたこと

(四)  右のような生活を続けていた被告人は、昭和五三年六月一一日、自動車を無免許運転して人身事故を起し、同年八月二九日、この事件で懲役五月、執行猶予三年、付保護観察に処せられ、同年九月七日ころ生家に戻つたものの、母屋の部屋に寝ることを拒んで、廊下に寝るなどし、同年一一月ころからは、生家の物置に寝泊りしながら無為の生活を続けたこと

(五)  ところで、被告人は、生家に戻つてからも、睡眠障害、食欲不振の状態を続け、被害妄想や抑うつ状態の症状を強めて、自殺念慮を抱くようになり、同年一一月六日ころには、草を燃やして焼身自殺をしようと思いついたり、同月八日ころには、米の乾燥機の音を聞いているうち、米のあるうちにやれとの暗示を受けて自殺する気になつたが、翌九日は突風があつたので、火をつけるのをやめたこと、そして、被告人は、同月一一日午前一時ころ、右物置内で横になつていた際、灯油をかぶつて焼身自殺しようと思い立ち、同日午前二時ころ、右物置内及びこれに接して設けられていたビニールハウスの北側に被告人の下着類を撤き散らしたうえ、これに灯油をふりかけてから、マツチで点火して燃え上らせたものの、熱くなつたので、自殺するのをやめ、母屋で寝ていた家人を起こしたりしたが、結局、前記のように、各建物を焼燬するに至つたこと

以上の事実に加えて、被告人が罹患していた精神分裂病は、本件犯行当時、重い程度のものと診断されていること、及び、本件放火行為は、重い精神分裂病に罹患していた被告人が、被害妄想を主とする妄想状態にあつて、抑うつ的になり、前記のように、草を燃やして焼身自殺を思いついたり、米の乾燥機の音を聞いては、自殺への暗示と受けとめて自殺を決意し、自我意識の障害のために、あやつられているような作為体験から、焼身自殺しようとして放火したものであることが認められる。

右の事実によれば、被告人は、精神分裂病の症状である被害妄想に支配されて自殺をするべく本件放火に及んだものと解せられるから、このことは、とりもなおさず、被告人が、本件当時、事物の理非善悪を弁識する能力を欠いていたか、あるいは、右能力にしたがつて行動する能力を全く欠いた状態で放火したものというべきである。なお、被告人が、前記のように、本件犯行の前々日には、突風が吹いたので焼身自殺をとりやめたり、本件犯行直後には、熱くなつたので物置外に飛び出して自殺を思いとどまり、母屋の家人を起したり、また、消火にかけつけてきた隣人に対して、ガスボンベがあるから近づかないように注意したという、一応了解可能とも思われる行為に及んでいる事実、及び被告人が、本件犯行の経過について、かなり明確に記憶しているという事実は、被告人が本件放火当時、心神喪失の状態にあつたとする前記認定を左右するものではない。何故なら、人格荒廃の著しい重症の精神分裂病患者といつても、知能、知識及び記憶力に障害をもつに至らない場合があるうえ、その症状としての妄想等に支配されない範囲においては、一応社会的生活に適応し得る面があるとされているところ、被告人は、本件犯行当時、重い精神分裂病に罹患していたが、普通智上の知能程度であつたうえ、記銘力障害もなく、基本的な生活が可能であつて、被害妄想等に支配されない範囲では、ある程度社会的生活にも適応し得る者であつたと診断され、前記の如き一見了解可能と思われる被告人の行動も、被害妄想に直接支配されない範囲における行動と認められるからである。

したがつて、被告人は、本件犯行当時、心神喪失の状態にあつたと認定すべきであるのに、これを心神耗弱とした原判決には、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認があるといわなければならない。

論旨は理由がある。

よつて、刑訴法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書により自判する。

本件公訴事実は、被告人は、昭和五三年一一月一一日午前二時ころ、群馬県伊勢崎市連取町二、四〇四番地峯崎祐一所有の木造トタン葺物置内において、焼身自殺を遂げようと企て、同物置に隣接する田中ミチが現に住居に使用する木造瓦葺二階建家屋等に延焼するもやむなしと決意し、同物置内及び同物置南側に隣接したビニールハウス北側に下着類を撒き散らし、その上に灯油を撒き、これにそれぞれマツチで点火して火を放ち、よつて、同物置(建坪約五五・八二平方メートル)一棟及び右田中ミチが現に住居に使用する前記家屋(建坪約七三・四四平方メートル)一棟を全焼させ、更に田中誠一等が現に居住している木造瓦葺二階建家屋(建坪約一四八・二四平方メートル)一棟の西側外壁の一部等を焼燬したものである。

というのであるが、被告人は、右犯行当時心神喪失の状態にあつたものであるから、刑訴法三三六条により無罪の言い渡しをすべきものとして、主文のとおり判決する。

(裁判官 船田三雄 櫛淵理 門馬良夫)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例